ムサシオープンデパート朝市

ムサシオープンデパート朝市・夜市、SAVE KAKOGAWA FES、生活と人生を彩る市場

ムサシと災害の話【岡本篤】

1000年に1度の災害!現地に行きたいが……
天変地異から朝市へ(3)
2019/03/12
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 3月12日です。8年前のいまごろは発見された死傷者数がつみあがり、福島原発の状態が刻一刻と悪化しているころです。

 地震発生直後、仙台平野を真っ黒な津波がのみこんでいくヘリ画像を見ながら思ったのは

「一刻も早く現地に行きたい」

ということでした。

 これは率直いってわたしという人間の性(さが)です。テレビで専門家が1000年に1回の大災害だとか言っている。つまり今目にしているのは1000年に1回しか見られない稀有な現象であって、こういうときわたしは「行きたい、見たい」としかおもわないのです。

 誰も見ていないものを見たい。自分の目で現実を見たい。直接見ないとぜったいに分からないことがある──というのはわたしのもともと持っていた性質であり、動物の調査や新聞記者を経験して強化してきた部分でした。

 いいか悪いかはまた別の話です。とにかく行かないと、伝聞情報だけでは満足ができない。

 

 当時わたしは株式会社ムサシのアイン事業部という雑貨事業部のリーダーでした。いまはオープンデパート朝市になりましたが、この市場の前身はアインショップという雑貨店です。最大時6店舗を営業していて東京の自由が丘にも店がありました。

 地震発生当初はもちろん営業どころではありませんので閉店。その後も原発の状況がどうなるかわからない状態──というより、どんどん悪化していきます。とりあえず東京の女性スタッフたちにも当面の自宅待機を指示し、また「いつでも東京を脱出できる準備をするように」と伝えます。いざとなったら関西で家族ごとスタッフを受け入れるつもりでした。

 しばらくして、在日の各国大使館や外資企業は駐在員を海外に引き上げはじめました。SNSからは「とりあえず東京を出ます」という人たちの声がきこえてきます。

 


 そのころわたしは何をしていたかというと、通常の仕事はせずに朝から晩までテレビとラジオをつけっぱなしにしてTwitterを更新しまくっていました。重要な情報発信をしている人をみつけてはフォローして信頼できるソースとつきあわせて現状確認をしていく。

 このときは新聞記者をやっていてよかったなぁとおもいました。いまや「マスゴミ」とかひどい言われようで、場合によってはそういわれてもしかたない現実もあります。しかし記者の仕事は毎日大量の「話」に接し、

「事実とウワサの峻別」

ができないと話になりませんので、情報の確度をたかめる能力にかけては一般人の比ではありません。これがひじょうに役に立ちました。

 ひょっとすると首都が壊滅するかもしれないという最悪の事態も想定しながら情報収集を続けていきます。そんなとき雑貨店のスタッフから電話が入りました。

「まわりの店が営業をはじめているんで、そろそろ店を開けたい」

というのです。愕然としました。ひょっとすると首都がまるごと放射性物質に見舞われ、首都圏から人々が大量脱出、つまり日本が大混乱におちいる可能性すらあるわけです。雑貨店で日銭をかせいでいるばあいではとうていありません。君らを守るために仕事などいっさい放棄して情報収集しているのに……。

「絶対ダメだ」

脱力感とともに伝えながら、一刻もはやく災害現地にいきたいけれど、しばらくはスタッフをまもるための情報収集と分析を続る覚悟をきめるしかありませんでした。

 

阪神大震災での給水作業
天変地異から朝市へ(2)
2019/03/09
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 株式会社ムサシも、阪神大震災のときに当社に在籍していた従業員はもう少なくなりました。25年ちかくも前になります。

 とにかく水が足りないという現地の状況を知って、給水活動に従事しました。加古川市の水道局とかけあって水を調達し、水タンクを自社トラックに(といってもブリキ製の巨大米びつ)に大量購入。水を満載して神戸市の激甚被災地となった長田区周辺の蓮池小学校などに配達をしていたようです。

 避難所になった小学校と、その周辺で営業を再開しようとしていた銭湯に給水活動をおこなったということです。加古川からの運搬だけではなく、被災地域内で水の調達もおこなったようです。

 当時の活動を記録したビデオを当社の副会長(わたしの叔父)が出してきてくれました。それを見ると、トラックを何台も連ねて長田区周辺に乗り込んでいくようすが写っています。運送会社のトラックも調達したそうですので、自社トラックといっしょに配送活動に従事していたのでしょう。

 この阪神大震災が株式会社ムサシが災害とダイレクトにつきあう初めての経験になりました。

 このときわたしは大阪の箕面市に住む大学生で、ムサシの神戸での活動には参加しませんでした。交通路が寸断されてしまって加古川に帰るのも困難になってしまったのもありますが、しかしそれよりも、そもそも遅れてきた反抗期みたいにヒネた学生生活をおくっていましたので、神戸の被災地は1回バイクに乗って見にいった記憶があるだけです。

 それというのも神戸に知り合いがあまりいなかったんですよね。自分にとって神戸という街にそれほど思い入れもなかったし、大災害というのものにたいしてどう動いていいのかもわからなかった。つまりは経験も能力も不足したガキだったってことです。

 しかし、この後の人生で阪神淡路大震災の歴史的な重みを知るにつけて、「何もしなかった」というのはかえって重い体験になっていきました。

 東日本大震災が起きたとき「なにがなんでもすぐに現場に行きたい」と思ったのも、阪神淡路大震災のときのこの経験が遠因にあった気がします。

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ムサシと災害の話をします
天変地異から朝市へ(1)
2019/03/07
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株式会社ムサシの経営者になってから4年半がたち、それとはいっけん無関係に、来週には東日本大震災の3月11日がまたやってきます。 「こらぁ……日本壊滅か」 という思いでTwitterの更新ボタンを連打したあの悪夢からもう8年がたつわけです。

 いっぽうで、いまわたしが運営しているオープンデパート朝市というのは、じつは災害時の避難所・交流拠点としての機能も持たせようとやっているんです。そんなこと知らなかったでしょ。だって言ってないからね(笑)。  

いまわたしがこうして経営者をやっていたり朝市を運営していたりするのには、自然災害がおおきくかかわっています。そこで、週末のオープンデパート朝市もなんとか軌道にのってきた、いや、のりかけてきたってかんじか。というところで、ひとつ語ってみます。

今週から来週にかけてムサシの社長というよりは、ふつうの人よりずいぶん災害・自然の猛威と濃くつきあってきた一個人の経歴・経験としても文章でふりかえり、これまでの来歴的に記録しておきたいんですね。

おそらく5回くらいの連載になりますが、ひょっとすると興が乗って50回くらいに延長するかもしれません(これがWEBメディアのいいところ)。  

しばらくおつきあいのほどを、というわけで、さいしょに株式会社ムサシと災害が交わったのは1995年、阪神淡路大震災でした。このときムサシは全社をあげて給水ボランティア活動をやったのです。会社が仕事を休んでボランティアをやるというのがどれくらいたいへんなことなのかそのころはわかりませんでしたが、中小企業としてはなかなかのものだったんじゃないでしょうか。

たしか毎日神戸市まで加古川からトラックで毎日銭湯だったか自衛隊の風呂だったかに水を運んだと記憶しています。 ──とまあ、そのころの話からはじめてみたいとおもいます。そのころの写真でも探してみようかな。

てなわけできょうはイントロダクションまでにて。  ま、そこそこお楽しみに。

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